|
| |
| -古代舟復元プロジェクト |
1. エクアドルの筏の沿岸航海について(操縦性)
2. メキシコ航海について
3. 縄文人は優れた海洋航海民族であった(日本・エクアドル交流説)
4. 木の幹から帆へ(船の歴史)
5. バルサ材について |
| |
|
|
グアヤキル湾でドイツ人の考古学者マックス・ウリェ氏の調査によりエクアドルの筏のグアラ
という水切り板の操作方法などが明らかになった。その筏は、バルトロ・ルイス氏がエクアドル
の洋上やサンマテオ湾でみた筏と相似したものである。
古代の海洋民族は、グアラによる筏の操縦法で、船首の方向を変えることや、沿岸航海、風上
に向けて進むことを可能にさせた。
古代の人々は,西部太平洋沿岸を航海した。この海洋航海法は、古代から普及していた。
古代の人々が湿気の多い熱帯雨林のジャングルやエクアドル中部の山間部の峡谷を歩いて
南下したと推測するのは難しい。
エクアドル沿岸地域の考古学の公表論文によると、ミシシッピの文化の具象と相似している、
南アメリカの文明をそこだけで着手するのは難しい。それどころかメキシコの中心のトルテカ
では、正統的な儀式伝統が残されており、文化の交流が合ったのではないかと想起させる。
-------
ウリェ
この筏の独特なところは、グアラにより風上に向けて沿岸航海をすることができることだ。
それほど進路がずれることなく行きたい方向に自由に進行することができる。船とは異なった
方法である。
縦3.4バーラ(2.5から4m)、横0.5バーラ(42cm)長さのグアラという板で操縦する。
グアラを船首と船尾に何枚か垂直に差し込む。そのグアラを出し入れすることで操縦する。
何枚かのグアラを差込み水を切り、方向を定めるために使う。方向を変えるにはグアラを
差し入れている箇所をだして、抜いてある箇所を入れる。
筏は、川を下るだけの物でなく、海でも使われていた。そして、かつては沿岸航海をした。
エクアドルの筏は,魚をとるための小さな筏、他の地域からグアヤキルへ商品を運ぶための
大きな筏、川岸で家族が暮らすことのできる水上筏(水上家屋)や航海用の筏など異なった
実用性を持っている。
筏の運行方向を妨げる海流の力に対しても,対応することができる。
小さな筏よりも大きな筏のほうが推進力があり早く進むことができる。筏の形は四角く,
船首と船尾が鋭利になっている。筏の速度を保つためには、4枚のグアラを丸太の間に挟む。
追い風の場合はグアラを抜き、反対に吹いてきた場合は、グアラを使った航法を取る。
場合によっては、5,6枚それ以上のグアラを使うこともある。このグアラにより水をきり、
風圧に対処すように作られている。グアラの操作方法は、いったてシンプルである。
グアラを使うことで適切な航路を取ることができる。
J.G. MARCOS PH. D
 |
| |
|
筏に使われる丸太には、バルサという木を使います。
バルサとは、スペイン語で筏という意味を持ちます。なぜかと言うと、スペイン人が
入植してきた頃、中南米の原住民たちがバルサを使った筏に乗っていたことから
その名の由来がついたそうです。
その証拠として、スポンディルス貝はエクアドル近海でしか採取されない、装飾品
として用いられる朱色の貝はペルーやメキシコの遺跡からも出土します。その他、
土で造られた人物像、バルサ筏に使われる重石等、発掘される数々の品は中南米
西岸での海上流通の活発さを物語っています。
興味のあることに、エクアドル沿岸地方の人々は、山地の民とは人種的にも性格的
にも異なる中米系(目が細く釣りあがっており,性格がおとなしく日本由来説が信じら
れている)の先住民に似ており、航海術に長じ、かけ引きがうまいと言われています。
また、エクアドル低地のサンタエレナ岬(レアル・アルト)のスポンディウス貝は、精巧な
細工が付加価値を高め、その貨幣的役割はペルーにも及んでいました。
スポンディルス貝はパナマ海流(暖流)が到達するエクアドルのサンタエレナ岬まで
生息します。直径10cm以上の二枚貝で、外側と内側の淵がバラ色をしています。
スポンディウス貝の生息地は、20mから水深40mまでといわれており、この貝を取る
ために筏を組み石のおもりを持って沈み、石で叩き採取していたと考えられています。
スポンディウス貝を加工した偶像や雨乞いの供物に珍重され、南米大西洋岸一帯で
この貝を中心として交易路が確立していました。紀元前1500年、山岳地方にはありえない
スポンディウス貝がアマゾン低地の洞穴にある住居跡で発見されています。
少なくとも、海、山、密林という三大地域が少なくとも物流で結ばれていたと言えます。
その他に先住民期(バルビディア文化)の特色は焼き物にみられる高度な質にあります。
海岸文化(バルビディア文明の拠点)に特徴としては、生産手段においても漁労と農耕
(陶芸)の混合経済を基盤にして、しだいに分業に向かっていったこと、他地域との交易
が活発であったことなどがあげられます。
エクアドルは、軽量で浮力の高いバルサ材の産地であることや、「日本人エクアドル
渡来説」の根拠の立証を補足する筏での「中米沿岸航海の経験説」は、中米沿岸航海
の経験を通じて、エクアドルが南北の太平洋交易の中心地だったという説へとつながる
のではないでしょうか。
 |
| |
- 3. 縄文人は優れた海洋航海民族であった(日本・エクアドル交流説)
|
エクアドル・グアヤキル市の市長でもあり、考古学に造詣の深かったエミリオ・
エストラダ氏は、1960年代にエクアドル太平洋岸のバルディビアから出土する土器
と、日本の「縄文土器」との相似性に着目して、アメリカのスミソニアン博物館の
エヴァンズ・メガース夫妻に送り調査への協力をもとめた。
夫妻はこれを正面から受け止め、エストラダ氏からの遺物や情報に接するや、ただちに
日本に飛び、各地に縄文の遺跡と土器に接し、「日本列島~エクアドル」間の縄文伝播
という前人未到の新学説を樹立した。
その学説は1965年にスミソニアン博物館学術報告書に『エクアドル沿岸部の早期形成
時代-バルディビアとマチャリラ期』として世界に発信された。
この「太平洋における文化の伝播説」はその後、各方面における研究成果により進展を
見せた。
このことは古田武彦氏の『海の古代史』原書房1996年,に次のように記述されている。
<『海の古代史』より>
1995年は、エヴァンズ説にとって黄金の年となった。なぜなら、その前年、「四柱の論証」
が成立していたからである。新しい論証からさかのぼってみよう。
第一は、「HTLV1(ローマ字)型の論証」である。1994年、名古屋で行われた日本ガン
学界において田島和雄氏(愛知ガンセンター疫学部長)によって報告された。
それによると、日本列島の太平洋岸(沖縄・鹿児島・高知県足摺岬・和歌山・北海道)の
住民(現在)に分布する、HTLV1(ローマ字)型のウイルスと同一のウイルスが、南米北
・中部山地のインディオの中にも濃密に発見された。その結果、両者が「共通の祖先」を
もつことが推定されるに至ったのである。
第二は、「寄生虫の論証」である。1980年、ブラジルの奇生虫研究の専門家グループ、
アウラージョ博士等による共同報告である。
それによると、南米の北・中部に分布するモンゴロイドのミイラには、その体内もしくは
野外に「糞石」が化石化して存在する。その中の(同じく化石化した)寄生虫に対して
調査研究を行った。その結果、それらの寄生虫はアジア産、ことに日本列島に多い種類
のものであることが判明したのである。
この寄生虫は寒さに弱く、摂氏二十二度以下では死滅する。従って通常考えられやすい
「ベーリング海峡〈ベーリンジャー)経由ルート」では不可能である。事実、シベリアや
アラスカ等には、これらの寄生虫を「糞石」の中に見いだすことはできない。
従って残された可能性は、エヴァンズ夫妻等によって提唱された「日本列島→南米西岸部
(エクアドル)」の黒潮(日本海流)ルートによると考えざるをえない。
これが、共同報告の結論であった。
その放射能測定値は、はじめ「3500年前」頃(縄文後期)と伝えられたが、1995年、
わたしの手元に到着した、アウラージョ博士の三十余篇のリポートによると、その時期は
右の前後(縄文中期-弥生期)にかなりの幅をもつようにみえる。
スペイン語等の論文
もふくんでいるから、今後、各専門家の手によってより詳細に確認したいと思う。
いずれにせよ、右のような「縄文時代における、日本列島から南米西岸部への人間渡来」
というテーマが、その共同報告の帰結をなしていることは疑いがたい。
第三は、「三国志の論証」である。1971年、『「邪馬台国」はなかった』によって明らか
とされた。
「裸国・黒歯国、南米西海岸北半部説」がこれだ。古田氏は魏志倭人伝に描かれて
いるこの南米における倭人の国についてさらに詳しく述べている。
わたしを導いたのは、学問の方法だった。“ただ、三国志の著者、陳寿の指し示す
ところに従う”この方法であった。
その結果「邪馬台国」ならぬ邪馬壱国(原文は「壹」)を“博多湾岸とその周辺”へと
指定することとなったのである。思いもかけぬ決着だった。
( 『「邪馬台国」はなかった』参照、朝日文庫1971)。
それにとどまらなかった。この方法は、わたしを導いて、倭人伝の中で誰一人、
真面目にとりあげようとしなかった二国“「裸国と黒歯国」が、南米西海岸北半部、
エクアドル、ペルーの地にあり”、この予想外の帰結にまで到らしめたのである。
陳寿によれば“女王国の東、千里にして「倭種」あり”という。一里は、約77メートル
(当時は“75メートルと90メートルの間。75メートルに近い”とした)の「短里」だから、
関門海峡以東が「倭種」。その“「倭種」の南に「侏儒国」がある”という。
女王国の東南にあたる。 その「侏儒国」は「女王を去る、四千余里」とあるから、
里程は、関門海峡からは“残り”三千余里。海上を測ってみると、当初「予想」した
宇和島近辺を越え、高知県の足摺岬近辺となったのであった。
その「侏儒国」が、次の問題の一文の起点だ。
「(裸国、黒歯国)東南、船行一年にして至る可し」
わたしは倭人伝の「年数」に
ついて、「二倍年暦〕という仮説に到達していた(後述)。
この立場からすると、右の「一年」は実質半年のこととなる。六カ月だ。
ところが、「太平洋ひとりぼっち」の堀江青年などの航海実験によると、「日本列島
-サンフランシスコ」間は、約三カ月前後。とすると、あと三ヶ月の「距離」を黒潮上
にたどれば--その結果がエクアドル、ペルーだった。
わたしは論理の筏に乗り、冒険航海の末、ここに到ったのである。前人未到だった。
すでに述べた「裸国・黒歯国、南米西海岸北半部説」がこれだ。
この論証の成立後、わたしはエヴァンズ説の存在を知った。
第四は、無論、エヴァンズ説(1965)「縄文土器の伝播」だ。
エストラダ氏の「発見」にもとづく新学説の誕生である。
以上のように、最初は「単独」にして「孤立無援」だった、この独創的学説は、30年
たった今、状況が一変した。当初は、予想さえされなかったであろう、種々の
「学際的裏付け」をえたのである。 この一点が重要である。
すなわち、右にあげた四つの論証は、相互に何等の関係なき、別の学問分野に
立つアメリカの孝古学、アジアの古典研究(史料批判)、ブラジルの自然科学
(寄生虫)、
日本の医学(ウイルス)と各別である。
1995年初頭、田島氏にはじめてお会いしたとき、氏はわたしの名前も著書
(『「邪馬台
国」はなかった』)も、全くご存じなかったのである(東京、国立予防
衛生研究所における
学会の会場脇でお会いした)。
にもかかわらず、四者の学問研究の“指示した”ところは、一致した。
もしくは同一方向へと帰着点をもつように見える。
すなわち、
「(古代における)日本列島の住民と南米北・中部住民との関係」
の存在である。
 |
| |
|
人間がいつ最初の小舟を造ったか、という質問には正確に答えることは不可能です。
私たちに知りうるすべては、有史時代となった時にはすでに小舟は存在していたという
ことだけです。
先史時代における発展経過を辿るには、再現を試みる以外に方法はありません。
私たちが人類最初の小舟について調べるには、紀元前8000年頃に遡ると、かなり
信頼性のある手がかりがあります。
それ以前のことになると、想像による飛躍だけに頼ることになるが、私たちの創造は
何らかの手がかりによって導かれることでしょう。そしてそれは、何よりも常識に従うもの
でなければなりません。(中略)
川で狩猟・採集での疲労を休めているとき、木の幹が何ということなしに水に浮かんでいる
のに気がついたのは、そんな場合のことだったに違いありません。
そして人類の生活様式を根元から変革させるようなことが、この木の幹からもたらされなど
とは、彼はつゆほども気がつかなかったことであろうし、それどころか、浮かんでいる木の幹
が彼の体重を支えることができるという、彼の最初の発見の意味することものを充分に理解
することさえもできなかったことでしょう。
もちろん、私たちは、このような発見がいつ、どのようにして起こったか知る方法はないし、
先史時代の人間が泳ぐことが知らなかったとか、溺れないように浮き木の幹つかまろうとは
しなかったなどとは推測する理由は何もありません。
その発見は全くの偶然から起こったことで、何の実用的な結果にもつながらなかった
だろうし、別の誰かが、別の浮き木の幹に?まって見るというようなことが起こるまでに、
長い年月が流れ去ったに違いありません。それにもかかわらず、とどのつまりは誰かが、
自分自身はたいした労力を費やすことなしに、水の流れのおかげで、相当遠方まで運んで
いってもらえること認識したのです。
一方、水のない陸地では人間を脅かしている多くの動物たちが、決して水の中まで危険を
冒してやって来ようとしないことを彼らは知っていました。
このふたつの魅力―――移動の容易さと攻撃からの安全性―――とが、かつては渇きを
いやし、手傷を洗うための“大切なもの”だったと同じような意味で、大切な味方としての
“水”として、人間をひきつけたに違いないといってもあまり的はずれではないでしょう。
木の幹に掴まってランスを保つのは、そうやさしいことではないし、思う方向に進むのも
結構難しいものです。難題に対しても、私たちの祖先は結局は何らかの手だてを工夫して
解決しました。木の幹をを縛り合わせて、筏を作ることに成功して以来、もはや水中に転げ
落ちることはなくなりました。そして流れのない浅い水の上ならば、長い竿を使うことに
よって、その筏を押し進めることもできました。
安定のよい筏と、竿によるコントロールのおかげで、人間は岸を離れて沖へ沖へと乗り出す
ことができました。そこでその原始的な舵取り道具が水の底まで届かないほどの深みにまで
行ったこともあったに違いありません。けれども竿を水の中であっちこっちと動かしているだけ
でも、彼の筏をある程度までは操縦すること可能でした。
しかしこの最初の船頭が、もう1度浅い所まで帰りつくには大変なエネルギーを費やさなけ
ればならなかったに違いありません。だがそれによって彼は長い竿は水底に届かなくても
筏を動かす役に立つことを発見したのでした。おそらくはこういう深い所での経験から、
人間はオール(櫂)とかパドル(水かき棒)とかを工夫するようになったのであろう。
そこでそれからは、深い所へ出て行くときには短くて幅の広い木片を筏に乗せておいて、
長い竿の代わりにそれを使ったのです。彼は筏をパドルで漕ぐことによって、陸上を行くより
も短い時間で遠い所まで行くことできたし、また彼の所有物を、ある処からほかの処まで
運送することができました。運送手段として、船と同じくらいに実用的な方法を発見するより
ずっと早くから、水上の運送が発達していたことを私たちは知っています。
つまり人類が車輪というものを発明したのは、水上での運送のはじまりよりは、はるかに
後のことだったのである。現代の、いわゆる未開民族の間で今なお用いられている小舟の
発達の経過を、私たちは合理的に推論することができます。
 |
| |
|
このバルサという木は、比重0.13と世界で一番軽い木です。その上、柔らかく非常に
高い度合いの浮力を持っています。そして、バルサは音や熱などの絶縁材として最適だと
いわれています。バルサの原産地は、中南米、カリブ諸島、東南アジアの熱帯地域に
生殖しています。
非常に育つのが早く7年で高さ70フィートの直経1.5フィートから2フィートになります。
条件のよい場所では5年間で、高さ80フィートの直径2.5フィートにもなります。
この情報は、アメリカ大陸の熱帯地方から取った統計です。
その他の筏の材料に関しても、過去の資料を基に古代使われていたエクアドル
原産の材木を使うことを計画しています。
 |
| |