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-歴史研究推進プロジェクト
  • エクアドルの文化
プレセラミック期(陶器を扱う以前の時代)

プレセラミック期は海岸地方で始まり紀元前8000年から3500年の期間を示す。
特にグアヤス州がもっとも古いといわれている。山岳地方とは異なり様々な自然環境があり、
石の破片や薄片のシンプルであり、きめ細かな加工技術は巧知に値する。その上、原始時代
から材木を加工して使われていたと予想される。

植物地理学の分析によると大地のサンプルからの驚くべき成果が発見された。
紀元前6000年前にラテンアメリカの中で一番古く、ラスベガスへの移住者によって
トウモロコシの栽培行われたのではないかと推察される。
エクアドルの海岸地方に位置するラスベガスと呼称されているもっとも研究が進んでいる
場所、考古学者の中での隠語で知られているOGSE-80(成人の男女が連ねられて埋葬
されている場所)はプレセラミック期の複雑さの象徴の一つとされている。
現在のグアヤス州の西の半島にあるサンタエレナ市の近郊に位置する。この時代のもっとも
重要な文化はラスベガスとインカ文明と言える。

早期形成期

早期形成期は紀元前3500年から500年の期間を示す。なぜならば、この時代に
先住民の集団が古いエクアドルの土地に移住し、農業開拓の重要な進歩を成就させ、
最初の集落と儀典を組織化し人々の絆を結び定住的な安定した社会の要因を形成した。
陶器の美的価値観や技術開発、その他に手工芸品や狩猟、採集、漁労、農業などの
仕事の分業作業が始まる。それ以外にも重要かつ特徴的な物が発見されている。
エクアドル沿岸部の早期形成期はバルディビア、マチャリジャ、チョレラ文化により
形成されている。

バルディビア文化

紀元前3500年前にエクアドル海岸地方で最も乾燥している地域グアヤス州で陶芸
が始まった。それを期にバルディビア文化は確立する。
エクアドルの考古学の研究での土器の起源は不可解なことに現在の日本、縄文人との
間での接触によって生じた推測されている。主な点としてエクアドルと日本の土器の装飾
模様の類似性があげられる。

しかし、バルディビアの陶器の起源の説明について現在の主流の学説は、アマゾン地方
からの伝播である。ほとんどのエクアドルの学者はアジアとの海洋交流説を否定している。
バルディビア文明は3500年から1800年の間での移住者たちは小さな丘の上に葉や竹で
家屋を建造し集落を形成した。
海の近くの住民は貝を加工し釣り針を作り漁労に従事した。
この文化の基は粘土、魚の骨、貝や巻き貝などを使用した巧みな手工芸が特徴である。
現在この文化の考古学品を収集家の手により見返されている。
バルディビア文明は、ラテンアメリカンの中で初めて織機や織物機材を使用し布が作られた。
その他に、ほら貝を加工しトランペットのように音を奏でる楽器などエクアドル国内の
インディヘナの祭儀などでいまだに使用されている。

 
  • エクアドルの歴史

バルディビア文化の確たる起源は証明されていない。
この地域の先任者となる集団を指し示すには根本的な相違がしかるべくあるが、
基本的には狩猟採集民族であった。
アマゾンに移住した集団との間で陶器の類似性についてあげられる。バルディビア文化
の発展はかれらの文化要素の繋がりにより陶器の革新が進み近隣国に早期に伝播していった。

この文化の人々は約5800年前から陶芸に携わっていた。紀元前3800年前に石の女神から
始まり紀元前2300年前後に女神像の多量に作り上げられる。
他のメソ‐アメリカから中央アンデスの古代文化とは区別する特徴的な伝統の基礎を造り上げた。
小像はシンプルな物から女性の象徴を示す物や装飾を身につけている物まで様々な異なる
形がある。共通要素として表情豊かな顔立ちがあげられる。
一般的に患者の回復を祈願するための健康や豊穣と関連したものとして解釈されている。
そのことを説明するにあたりバルディビア文化の地域ではたくさんのばらばらになった
小像が発見されている。
民族誌学の資料ではセントラル‐アメリカの様々の部族の中では治癒の儀式に使われていた
と著述されている。他の側面と結びつけると陶器の文化にはいつも女性と関連しており、
これらの小像は神話の物語りに結び合わせ象徴的な意味がある。

バルディビア文化

エクアドルの古代文化の中でバルディビア文化は、新世界の中で最も古いと言うことで
名声を受けた。エクアドルの海岸地方でもっとも古い陶器が発見された。
ここ数十年間のあいだにペルー、中米、メキシコの文明に関係があるのではないかと
指摘されている。まずはじめにエクアドルの名声を上げたのはアジアからアメリカへの
技術伝播説によるものであった。
おそらくアメリカ大陸の古代陶器の発見は、コロンビアでの発見がしのぎ、最近ではブラジル
でも発見されているといわれている。近年、アメリカ大陸でもっとも古い陶器ではないのでは
ないかと言われている。そのようなことはエクアドルやバルディビア文化のを見る上で
重要ではない。考古学の中で最も古いものを競い合って発見することではなく、広い視野を
持ち遺跡文化や地域発展の経緯を解明することにある。
バルディビア文化に対して様々な解釈があるがペルーのチャビン文化やメキシコの
オルメカ文化よりも古く、早期形成期に花を開いた文化であることは確信に至る。
バルディビア文化は農業に従事し組織化されていた。


マチャリジャ文化

マチャリジャ文化は現在のエクアドル南部海岸地方のサンタエレナ半島で1800年から
1000年のあいだの期間を示す。
バルディビア文化との類似性を考慮に入れ、はっきりとした陶器の技術革新をみなす
ことができる。この文化の特徴にも陶器の小像が表現されており、おそらく耽美主義
(たんびしゅぎ)や階級位置を示している。赤いラインや曲線状に構築した柄などの
容器が特徴である。

チョレア文化

チョレア文化の陶器は艶があり美しい装飾をつけており、手の込んだ音を奏でる瓶、
オカリナ、祭儀用の陶器、皿、たくさんの男や動物をかたどった小像が上げられる
チョレア文化はババオジョ川岸で文化が栄え、すべての海岸地域から一部の山岳
地方までを占めていた。

地域開発期

地域開発期は紀元前500年から紀元後500年の期間を示す。
人文地理学的に自治権のある準地域の原住民との間による政治、社会の編成
が行なわれる。この文化の特徴として様々な異なる多様な文化の技能が容易に
受け入れられた。
この時代に始めて製造に使われる機材一式が発見されている。その他に重要な
特徴として祭司、陶芸家、織工、農民、商人などの組合を形成していたと予測される。

この時代の海岸地方で示される文化をラ・トリタ、グアンガラ、テハル・ダウレ、
ハマ・コアケ、バイアと呼称する。
グアンガラ文化は紀元前500年から紀元後500年に位置する。
グアンガラ文化は北部グワヤキル湾で発展し、海岸地方のマナビ州の中心に
位置するラ・プラタ島まで交易は及んだ。内陸部はグアヤス州のチョンゴン-コロンチェ
山系からマナビ州のパハン山系の区間まで及ぼす。
数え切れないほど大量な石の金属が発見された。その他にも、農業用水路、貯水池
などが見つかっており農業の活性化され、それらの物や魚類、肉類を貯蔵し補っていた。
グアンガラ文化にて、初めてエクアドルの考古学の歴史の中で胴の金属加工が発見された。
その他の特徴として入念に磨き上げられて人間や動物をかたどった陶器のオカリナや笛が
発見され魅惑的な音色を生じさせる。それらは祭儀などに使用されていたと予測される。
中でも興味深いものに口が広く体が丸く窪んでおり4つの折り曲げられた足がついてるもの
などの独特な壷の形や皿がある。

統合期

統合期は紀元後500年から1500年の期間を示す。
その期間に少数民族の国境がゆっくりと消滅していく。そして、この時代のもっとも
重要な特徴として様々な地域社会での中で文化統合が構成され、普及していく事
があげられる。その他のこの時代の特有の特徴として下記に要約し示す。

アンデス山脈の景観の中で消すことのできない段々畑の形跡が残されており、
その時代には既に農業の進んだ技術を導入されている。都市化による一貫性と
人口拡大により、より良い農業生産を可能にさせたと推測される。
農業生産の発展と共に物々交換のシステムや初期の通貨流通システムの始まり
により、商業化されたと推測される。金や銀の合金や銅の使用によって加工された
多くの装飾品や実用品は冶金学の発展によるものである。
その時期に綿の織物生産も増加していく。エクアドル沿岸地方の2つの重要な文化、
ミラグロ·ケベドとマンテニョ·ウアンカビルカはこの時代に値する。
地理学的にはグアヤキル湾やグアヤス河川地域にはじめに移住した。
マンテニョ・ウアンカビルカ文化は北部マナビ地方からエル・オロ県まで占有していた。

ウアンカビルカ文化は紀元後800年から1500年の間の700年間に及び続いた。
歴史学者たちの話では幾つかの歯を抜き、金を挿し付けていたと言う。彼らは
すばらしい農業技術を有していた。マンテニョ·ウアンカビルカの長は現在のグアヤス州
のグアヤキルの前にあるプナ島住んでいた。マンテニョ·ウアンカビルカの長は宝石や
すばらしい石や金の飾りの豪華な王冠を使用されていた。

植民地時代

1531年末、サンフランシスコ・ピサロとその仲間が初めてエクアドルに来てピサロが
モーロ運河に到着する以前に, エスメラルダ地方サン・マテオから南下しヒピハパ、
サランゴ、コロンチェそしてスンパの大地を通過してグワヤキル湾に侵入して来たことは
疑いの余地はない。1532年ピサロたちはプナ島に入港する。その後、トゥンバラ酋長に
接近を試み、血のまみれる激しい争いとなりトゥンバラ族に敗退し撤退する。
この年の4月にトゥンバラを去りトゥンベスへ進路を向ける。スペインのガレオン船は
結果として原住民の交通手段であるバルサ筏に海上で出会いをもたらした。
スペイン船侵入以前の太平洋の海の持ち主であるバルサ筏は歴史の中で重要な役割
を示している。バルサ筏は古代海洋民族の主要な河川、海上の交通手段だけでなく
古代からこれらの地域で使用されており、この時代のスペイン船よりも優れていた。
スペイン人侵略後300年経過しても河川、洋上でバルサ筏の景観を拝むことができた。

二つの過去の美しき文化が交わり、南米の文化は侵略され共生者による文化摂取により
衰弱が生じる。衰弱とは成就、武勲の欠如ではなくヨーロッパの君主政治の問題を
乗り越えた発展社会、国王の抑止力による搾取による衰退である。南米ではヨーロッパ人
との混血社会を形成した。この世界の熟達した人類の主要な早期の変化に対応し、
その時代の立役者がこの地に集まり、特有のアイデンティティを作り現代の文化の基礎
を造り上げた。

 
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